桑野信義と志村けんとの関係性を改めて振り返る

桑野信義さんは、2022年に困難から立ち上がり芸能活動の復帰をしました。

2025年現在、桑野さんは、ツアーの真っ最中です。

桑野さんといえば、真っ先に思いつくのがコントの世界で桑野さんに大きな影響を与えた、志村けんさんの存在です。

来年、2028年には、志村けんさんの生誕76周年です。
改めて、桑野信義さんが志村けんさんと出会ったきっかけとその関係性をエピソードを交えてご紹介いたします。

目次

桑野信義さん 志村けんさんの番組の出演前後

桑野信義さんは、ラッツ&スターの前身である、シャネルズ でトランペットを担当

1987年放送の『志村けんのだいじょうぶだぁ』では初代家老を演じていた東八郎さんの後任として 2代目家老役に抜擢、それからは バラエティー タレントとして、ものまね王座決定戦に出場するなど、芸域を広げていきました。

桑野信義さんと志村けんさんとの出会いと関係性

掲載元:桑野信義 オフィシャルブログ

桑野さんが初めて、志村さんと出会ったのは、ドリフのメンバーがシャネルズの新宿のステージを見に来てくれた時でした。
当時の志村さんは、まだ正式のドリフのメンバーではなく、まだボーヤだったので、挨拶を交わすことはありませんでした。

その後、再会をしたのは、8時だよ全員集合でシャネルズが「少年少女合唱隊」のコーナーにゲスト出演した時でした。

しかし、この時も、当時の桑野さんは、バンド の一員だったことから、しっかりとした形で挨拶をすることができませんでした。

志村さんの番組出演と恐怖の対面

それから、時が経ち、1987年、志村さんが独立単体で、『志村けんのだいじょうぶだぁ』を放映することが決定。

桑野さんの所属事務所に『オタクの田代と桑野を出してくれないか?』というオファーが舞い込みました。

志村さんが、芸人ではない、ミュージシャンの桑野、田代さんをオファーしてくれた理由は『志村けんのだいじょうぶだぁ』の前年は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS、1986年1月~1992年3月)が放映。

志村さんはこれまでの『カトけん』のイメージを払拭する為、毛色の異なるコントの色を出していきたいということから、お笑い芸人じゃない人と絡んで番組を作っていきたいという意向によるものだったのです。

当時の桑野さんは、リーダーの鈴木雅之さんが、ラッツ&スターを脱退し、ソロ活動をしていくことが決定していました、メンバーたちも、それぞれ、別の道を歩むことになっていました。

鈴木さんが『桑野、お前は音楽をやれよ。』と音楽継続路線を勧めてくれていた頃です。

当時、メンバーで子供がいるのは、自分(桑野さん)だけだった、家族を食べさせていかなければならない。

だから、もしこのチャンスを活かし、バラエティに進んで売れたら、音楽を続けるという二足の草鞋という生き方もできる。

『よしやろう!』そこから、『志村けんのだいじょうぶだぁ』に出演する決意が決まったのです。

しかし、決意は固まったというものの、正式に初対面をした時の志村さんは怖かった。

挨拶をする為に、楽屋を訪れた時でした。
『失礼します 』とドアをトントンと開けたら、コントを収録していた合間の志村さんと加藤茶さんが、ハチマキを巻いて、パンツ一丁の姿で、『誰だあ?』みたいな感じで振り向いて、自分の事をじろっと見られた、この時の形相が鬼気迫り、とても怖かったと振り返っています。

『今度、志村さんの番組でお世話になる、桑野です』と挨拶したら、志村さんは『うんうん』みたいな。なんかそこではあまり 会話がなくて 挨拶だけで、『よろしくお願いします』と言って ドアを閉めて『あー怖いよって』(笑)

引用元:文春オンライン

バカ殿二代目家老役の重圧

画像掲載元:女性自身

『志村けんのだいじょうぶだぁ』の家老役に抜擢したのは、志村さんでした。
当時、桑野さんは31歳。

初代の家老役東八郎さんでした。

多くの喜劇人が、東八郎さんの後任役を求め、オファーを送ってきましたが、志村さんは、その全てを断って、桑野さんが役を演じるのだと直々にオファーをしました。

もちろん、初出演だし光栄と思う反面、この大役に対して不安がないはずはない。

及び腰の感情の方が勝り『師匠、僕自信ありません。』

そう言うと『桑ちゃん、音楽だって、最初は誰かのコピーから入るだろう、最初からラッパは吹けないだろう?やっていくうちに自分のものにしていくんだよ、だから絶対にやれ』と志村さんに突き返された。

自信がない、最初の頃は思いっきり、東八郎さんのモノまねをしました、当時は、動きも発声も完全に東さんのモノマネで『申し訳ございません』という気持ちを感じていました。

何故?志村さんは、自分を抜擢してくれたのだろうかと改めて振り返った事があります。

「志村さんは当時『音楽やってる人はテンポが分かるんだよね』って話していたものだった。舞台だと、お客さんの笑い 待ちもある。それを待たないで喋っちゃう人もいる。そういうことは嫌う人だったから、『志村けんのだいじょうぶだぁ』で俺に声をかけてくれたのは、そういう理由があったんだと思います。

引用元:週刊女性PRIME

月日が経つにつれ悩みが告白できる様に

ミュージシャンからコントの業界に参入、初めの頃は不安とプレッシャーに押しつぶされそうになっていたものでした。

『このまま尻つぼみになるんじゃないか、食っていけるのだろうか?』という不安が心を覆いました。相談をできる相手もなく、どこの現場でも、とにかく、必死でやるしかなかった。

かなり追い詰められてもいた、本当に難しかった、志村さんのお笑いは本格的喜劇の世界だった。

志村さんのコントはオチに向かうまでシリアスだった、自分が今まで、テレビを観て想像していた、コントとは全く違うもの。

まさしく、『志村けんのだいじょうぶだぁ』で繰り広げられるコントは、緊張と緩和の世界。

例えば、男女の恋愛のお笑いだとすると、初めにシリアスな絡みがあって、最後のオチでドカーンと笑わせていく。

それが、志村さんのコントの狙い、その狙いがわからず 、途中で崩して笑いを取ろうとすると

志村さんから『違う、それは違うんだよ』と遮られ、指摘をされる。

初めの頃は『家に帰りたい、この緊張から逃れたい』とばかり思っていたと桑野さんは振り返りました。

収録を重ねて、しばらくすると、フジテレビの前にある飲み屋に、志村さんから、「桑野さんさ、帰りに一緒に飲みにいこうよ」と誘われた。それから終わる度に、その店に呼ばれるようになって、仕事の悩みを打ち明けたりできるようになりました。

印象に残っているエピソードは、『志村けんのだいじょうぶだぁ』の収録が終わった明け方の4時に、新宿にある「ひとみ」っていう年中無休の飲み屋さんに連れていってもらいました。
そこのママこそ、志村さんのネタの「ひとみばあさん」のモデルになったひとみさんでした。

明け方に行くと、ひとみさんが、「いらっしゃいませぇ~~」と挨拶に来てくれて、みんなで一緒に飲む。当時は10時くらいまで、お酒に付き合い、昼の12時から仕事に入ったものでした。

沈黙の楽屋には歴史があった

画像掲載元:東スポ

『志村けんのだいじょうぶだぁ』は月曜日が本番の曜日でした、前の週の水曜日は、ネタ作りの日で、スタッフ全てが フジテレビの大きな会議室に集まりました。

会議室は、四畳半の畳が敷いてあり、座るのは、志村さん、桑野さん、 田代さん、そして残りの作家やスタッフは コの字になって座っている。

作家たちが持ってきたネタを志村さんが無言でチェック、その間、1時間程、皆、水を打ったように無言。志村さんがネタを読み終わり、話すまで、喋れないという雰囲気。

荘厳にして厳格な空間、テレビで見る、面白い志村さんではない、しかし、それも何年かするうちに、志村さんの性格やコントの狙いや考えがわかるようになってきました。

時が経ち、後で、この楽屋での話になった時、ドリフの時代を知る関係者が、いかりや長介さんが、無言でネタをチェックしていることを聞かされた。志村さんもそのあり方を踏襲されているということを知ったのです。

心の中で生き続けるアドバイス

志村さんから学んだことは、コントは80%の力でやる事を学んだ。

『志村けんのだいじょうぶだぁ』の当時は毎日煮詰まっていました。

プレッシャーに耐えきれず、『俺不安です』と志村さんに愚痴を漏らしてしまった時でした。

100%ではなく80%の力でお笑いは臨めばいいんだよ

『残りの20%はどうするんですか?』と質問すると『残りの20%はイレギュラーのためにとっておくんだよ』と笑って答えたといいます。

桑野さんは、100%を引き出すためには、130%の力で臨まなければならないと思っていた。

しかし、100%でやろうとしても、人間はロボットのように緊張をコントロールできない生き物だから、 セリフを間違え『すみません』と 止めてしまう、そうすると滑らかに流れていた、コントのリズムが崩れてしまいます。

志村さんは他人のセリフのミスを笑いに変えてくれる人でした。

亡くなった今ももらったアドバイスの深みに気づく事があります。

それは『一生懸命ならない。頑張らないってことじゃなくて、頑張りすぎないってこと。頑張り続けると 余裕がなくなってしまう。余裕でいたよ ってことなんだよね』ということを改めて感じるようになったという事です。

長い芸能活動の中で『100%ではなく80%の力でお笑いはいい』という志村さんから得た、アドバイスは常に桑野さんの心の支えになっているとの事です。

志村けんさんは幼少時から身近な人だった

画像掲載元:Tarzan

1973年生まれの筆者は、幼い頃は共働きだった、両親の事情により、田舎の祖父母の元で育てられました。

祖父母の家には必要最小限の家具と仏壇しかない頃、唯一の娯楽はテレビを観ることであり、毎週土曜日、『日本昔ばなし』の後に『8時だよ全員集合!』を見ることが唯一の楽しみでした。

特に志村さんと加藤さんのヒゲダンスがとても大好きでした。

志村けんさんと筆者の母は 同じ生年月日(1950年2月20日生まれ)だったこともあり、会った事のない志村けんさんに親しみを感じていたものです。

2020年に虹の橋を渡った事を知ったのは、仕事の最中で、お客様との会話からでした。

突然のニュースに驚き、仕事の手が止まり、 呆然としたものです。

それから、しばらくの間はショックで、志村さんに関する記事や、お別れ番組、YouTubeで挙げられた動画ばかり観ていました。

私の人生にとっても唯一無二の『コントの神』という存在でした。

まとめ

桑野信義さんと志村けんさんとの出会いは、志村さんが虹の橋を渡っても尚、桑野さんの心の中で生き続ける、深い存在である。改めて深い縁で結ばれた師弟の関係性であることを再認識しました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次